広瀬氏も写っているはずですが何処にいるのか判りません。
神主の右側お二人目ではないかと思います。
一度だけ写真を拝見した記憶ですので間違っていたらお許し下さい。

浜 平右衛門(濱、はま へいえもん、1882年明治15年)7月27日[注 1][2] - 1949年昭和24年)4月25日[1])は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家実業家銀行家貴族院多額納税者議員。幼名は小太郎[2]
浜佐太郎の長男として[注 2]茨城県新治郡石岡町(現在の石岡市)に生まれる[2]1898年(明治31年)1月、家督を相続し、改名する[2]。実業界にて石岡電気、鹿島参宮鉄道、北浦電気、太田製糸、常南電気、北総電気の各社長、常磐銀行、石岡銀行、水戸電気鉄道の各取締役など重役を歴任[2]。ほか、茨城県醤油醸造組合、同信用組合の各組合長を務めた[1]
地方政界においては、石岡町会議員、同消防組頭、産業組合中央金庫評議員などを歴任した[1]1925年(大正14年)茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日[4]から1932年(昭和7年)9月28日まで在任した[1]。出典:ウィキペディア
鹿島参宮鉄道株式会社(かしまさんぐうてつどう)は、茨城県にかつて存在した鉄道路線バス事業等を行っていた会社である。関東鉄道の前身会社。
鹿島参宮鉄道は、大正時代に茨城県の石岡から鉾田を結ぶ鉄道経営のために設立された。また、玉造から延方までの路線延長も企図していた。霞ヶ浦の汽船事業により鹿島参宮の目的を果たしたが、鉄道の経営も厳しい中、集客できずに数年で撤退している。その後は本格的にバス事業に進出して、水郷地域の観光路線・生活路線を網羅していき、ガソリンが統制された第二次世界大戦前後を除いて会社の大きな収益の柱となった。常総筑波鉄道との合併前には、茨城県内の水戸から取手を結ぶ常磐線から東部のほぼすべての地域に路線バスを張り巡らせ、千葉県の佐原銚子にも路線を延ばしている。1965年(昭和40年)6月1日に常総筑波鉄道と合併し関東鉄道となった。存続会社は鹿島参宮鉄道。出典:ウィキペディア
写真のサイズは29×24.3㎝です。
筒のサイズは27.2×4.1×4.1㎝です。
写真にあるスケールは全長17㎝です。
状態は経年によるシミヤケがあります。
発送は追跡可能なレターパックプラスを予定しています。


(2025年 2月 1日 13時 47分 追加)
広瀬栄一氏は、神主の左側にいらっしゃるようです。
ほぼ間違いなさそうです。
後日写真関係を出品致します。
よろしくお願い申し上げます。