以下、所謂ブラクラ妄想ショートショートです〜〜

https://youtu.be/nMROhyihehU?si=hJeHUKyq2bRLGWQE


令和ジュエリーストーリー「金の蔓、涙の雫」
序章:令和の片隅で
淀んだ空気が、古い木造アパートの六畳間に満ちていた。橘紗代(たちばな さよ)は、液晶タブレットの明かりだけを頼りに、息を詰めていた。画面に映し出されているのは、何度描き直しても生命の宿らないジュエリーのデザイン画。クライアントから突き返された、「もっと有機的で、ストーリーのあるものを」という言葉が、重たい鎖のように思考を縛り付けていた。
三十歳。大阪市内の小さな宝飾店「アトリエ・キリシマ」で、ジュエリーデザイナーとして働き始めて五年が経つ。憧れていた仕事のはずなのに、現実はくすんだ色をしていた。デザインは迷走し、プライベートでは三年付き合った恋人との関係も、まるで張りを失ったネックレスのように、だらりと熱を失っている。
「紗代、本当にそれでいいの?」
先日、恋人の圭吾に言われた言葉が蘇る。彼の問いは、仕事にも、二人の関係にも、そして紗代の生き方そのものにも向けられているようで、うまく返事ができなかった。私たちは、ただ同じ時間を惰性で漂っているだけなのかもしれない。
そんな無力感に苛まれていた週末、母から電話があった。一年前に亡くなった祖母・靜(しず)の一周忌の法要を終え、本格的に遺品を整理したいので手伝ってほしい、という用件だった。気晴らしになるかもしれない、と紗代は実家のある天王寺へ向かった。
祖母の部屋は、彼女の生前の気配をまだ色濃く残していた。樟脳の匂いが混じる、凛とした空気。静かで、芯が強く、けれど多くを語らない人だった。紗代は、祖母の本棚の奥から、埃をかぶった桐の小箱を見つけた。蓋を開ける。現れたのは、息を呑むほど美しい一本のピンブローチだった。
しなやかな金の蔓が、天に向かって伸び上がるような躍動的なフォルムを描いている。その先端には、朝露のようにきらめく数多の小さなダイヤモンド。そして、蔓の途中からは、一粒のペアシェイプのダイヤモンドが、まるで涙の雫のように揺れていた。時代を超えた洗練と、奥深い物語性を感じさせるデザイン。祖母がこんな華やかなジュエリーを持っていたなんて、想像もつかなかった。
箱の底には、古びた紙片が一枚。黄ばんだそれは、「Certificate of Gem Identification」と印字された宝石の鑑定書だった。発行元は「NOBLE GEM GRADING LABORATORY」。そこには、こう記されていた。
NGL. NO. 970361
結論:天然ダイアモンド
Cutting Style:ペアシェイプカット / ラウンドブリリアントカット
Weight:0.27ct
Comments:K18
0.27カラット。決して大げさな大きさではない。けれど、その澄み切った輝きは、確かな存在感を放っていた。そして、鑑定書の隅には、老舗ブランド「MIKIMOTO」の古いロゴが微かに見て取れた。
「お母さん、これ、おばあちゃんの?」
リビングでアルバムを整理していた母に尋ねる。母はブローチを一瞥し、首を傾げた。
「さあ……見たことないわね。おばあちゃん、派手なものは好まなかったから。お母さん(靜)のお姉さん……つまり、あなたの大叔母さんにあたる綾乃(あやの)さんのものだった、とか聞いたことがあるような、ないような……」
綾乃大叔母。母ですら、幼い頃に数回会ったきりで、写真でしか顔を知らないという。なぜ、その人のものが祖母の元に?
紗代はブローチを手のひらに載せた。重さ4.6グラム。金の確かな重みが、指先にずしりと伝わる。幅82.4ミリ、高さ16.6ミリの小さな芸術品。それは、ただ美しいだけの装飾品ではないように思えた。まるで、声なき言葉を宿したまま、長い眠りについていたかのように。
液晶タブレットのデザイン画が、急に色褪せて見えた。このブローチには「ストーリー」がある。自分が描こうとして描けなかった、本物の物語が。
「このブローチのこと、もっと知りたい」
衝動的に、紗代は思った。それは、デザイナーとしての好奇心からか、あるいは、行き詰まった自分の人生に何か光を差してくれるかもしれないという、淡い期待からだったのかもしれない。この小さな金の蔓が、自分をどこかへ導いてくれるような、そんな予感がした。
第一章:静寂の記憶
週が明けて、紗代は鑑定書をバッグに忍ばせ、心斎橋にある職場へ向かった。アトリエ・キリシマは、オーダーメイドやリフォームを主とする小さな店だ。オーナーの桐島は、職人気質だが腕は確かで、紗代のデザインの才能を最初に見出してくれた恩人でもあった。
昼休み、紗代は鑑定書に記された住所をスマートフォンで検索した。「大阪市中央区南船場3-2-22」。驚いたことに、それはアトリエから歩いて数分の場所だった。今はもうそのラボラトリーは存在しないかもしれない。それでも、何か手がかりが掴めるかもしれないと、紗代は昼食もそこそこに店を出た。
古い雑居ビルが立ち並ぶ一角。目的の住所には、瀟洒なアンティークジュエリーの店が佇んでいた。店名は「L'crin du Temps(レクラン・デュ・タン)」――時の宝石箱。導かれるように、重厚な木製のドアを開ける。
カラン、と澄んだベルの音が鳴った。店内は、静かな光と古い木の匂いに満ちていた。ガラスケースの中には、アールヌーヴォーの繊細なネックレスや、アールデコの幾何学的なリングが、それぞれの時代の物語を秘めて鎮座している。
「いらっしゃいませ」
店の奥から現れたのは、紗代とそう年齢の変わらない、涼しげな目元をした男性だった。白いシャツに細身の黒いパンツというシンプルな装いが、彼の知的な雰囲気を際立たせている。
「あの、すみません。少しお伺いしたいことがあって……」
紗代はおずおずと鑑定書を取り出し、事情を説明した。この場所にかつてあったというラボラトリーのこと、そして祖母の遺品であるブローチのこと。
男性は「蓮見朔弥(はすみ さくや)です」と名乗り、興味深そうに鑑定書に目を落とした。「ノーブルジェム……ええ、確かに三十年以上前まではこの場所にありました。私の父が、ここの鑑別士と懇意にしていましてね。よろしければ、そのブローチ、拝見しても?」
紗代が桐の箱からブローチを取り出すと、朔弥の目が微かに見開かれた。彼はルーペを手に取ると、吸い寄せられるようにブローチに顔を近づけた。
「……素晴らしい。ミキモトの古い時代の作ですね。おそらく昭和初期の特注品でしょう。この躍動感のあるデザイン、そして石の留め方。既製品にはない、特別な意思を感じる」
特別な意思。その言葉が、紗代の胸にすとんと落ちた。
「このブローチの背景を知りたくて。何か、調べる方法はあるでしょうか」
「ミキモトのアーカイブを当たるのが一番ですが、個人の特注品となると記録が残っているかどうか……。ただ、」と朔弥は言葉を区切り、ブローチのデザインを指でなぞった。「このフォルム、どこかで……」
彼は何かを思い出すようにしばらく黙考していたが、やがて首を振った。「すみません、思い出せない。でも、とても気になるデザインです。もしよければ、僕も少し調べてみましょうか。古い宝飾雑誌のバックナンバーや、昔の職人さんの名簿が、父の書斎に残っているかもしれません」
思わぬ協力の申し出に、紗代は心から感謝した。朔弥という人物が持つ穏やかで誠実な空気に、自然と信頼を寄せることができた。
その夜、実家に戻った紗代は、もう一度祖母の部屋を探索した。朔弥の言葉が、彼女を突き動かしていた。そして、本棚の裏の、ほとんど忘れ去られたような小さな引き出しから、一冊の古い日記帳を見つけ出した。祖母・靜のものだった。
ページをめくると、祖母の美しい、けれどどこか硬質な筆跡が並んでいる。日々の出来事が淡々と綴られている中に、その記述はあった。
昭和三十年四月十二日
綾乃叔母様が、あのブローチを私に託して逝かれた。あの方の、たった一つの宝物。炎の中を駆け抜けてもなお、手放さなかったという想いの結晶。私には、これを持つ資格などない。けれど、叔母様の最後の願い。「いつか、この輝きにふさわしい誰かの元へ」。その言葉だけを胸に、この秘密を墓まで持っていこう。あの人の想いも、叔母様の悲しみも、全てこの箱の中に封じ込めて。
綾乃叔母。やはり、ブローチは元々、大叔母のものだったのだ。「炎の中を駆け抜けても」。それは戦争のことだろうか。そして「あの人」とは誰なのか。日記には、それ以上詳しいことは書かれていなかった。ただ、「許されぬ恋」「誓いの証」という言葉が、別のページにぽつりと記されているだけだった。
紗代は、ブローチを胸に当ててみた。ひんやりとした金属の感触。それは、ただの美しい装飾品ではなかった。二人の女性の、数十年にわたる静かな覚悟と、封じ込められた熱い想いの重みだった。
翌日、紗代はアトリエで、無心に鉛筆を走らせていた。あのブローチの、しなやかで力強い金の蔓のラインが、頭から離れない。植物が光を求めて天に伸びる姿。その純粋な生命力。自分が描きたかった「有機的なフォルム」の答えが、そこにあるような気がした。
今まで描いていた線が、いかに表面的で、借り物の言葉でしかなかったかを思い知らされる。もっと深く、もっと強く。このブローチが語りかけてくる声に、耳を澄ませなければ。
数日後、朔弥から連絡があった。「少し、面白いことが分かりました」という、弾んだ声だった。
第二章:昭和の残照
時は、昭和十二年の大阪。モダンなビルが立ち並び、心斎橋筋には流行の洋装に身を包んだ人々が行き交う、活気と浪漫に満ちた時代。
結城綾乃(ゆうき あやの)は、船場の裕福な呉服商の長女として、何不自由なく育てられた。しかし、その美しい貌の内には、古い因習に縛られることを良しとしない、燃えるような情熱と進取の気性を秘めていた。女学校では西洋文学を耽読し、密かに英語を学び、いずれは海外へ出て、広い世界を見てみたいと願っていた。
そんな彼女の運命を変えた出会いは、父に連れられて出席した、ある建築物の竣工記念祝賀会でのことだった。彼の名は、伊吹航(いぶき わたる)。まだ無名に近い、若き建築家だった。
航は、古い商家や町家がひしめく大阪の街に、西洋の合理性と日本の美意識を融合させた、新しい建築の息吹をもたらそうと夢見る青年だった。彼の瞳は、未来だけを見つめているかのように澄み切っていた。家柄や財産ではなく、その人の内なる輝きを見つめる航の真っ直ぐな眼差しに、綾乃は初めて会ったその日から心を奪われた。
二人の恋は、ごく自然に始まった。身分違いの恋だった。結城家が、娘の相手として名もなき建築家の卵を認めるはずがない。二人は、人目を忍んで会うしかなかった。彼が設計を手掛けた中之島の公会堂の片隅や、天神橋筋の古びた喫茶店が、二人だけの世界になった。
航は、熱っぽく未来の夢を語った。人々が集い、笑い、心安らげるような空間を創りたいのだ、と。綾乃は、彼の夢の熱心な聞き手であり、一番の理解者だった。
「君を見ていると、インスピレーションが湧いてくる」
ある日、航はそう言って一枚のスケッチを綾乃に見せた。そこには、一本の蔓が、螺旋を描きながら天へと伸びていく様が描かれていた。
「これは、君だ。綾乃さん。古く凝り固まった土の中から、光を求めてしなやかに、けれど決して折れることなく伸びていく。その強さと、時折見せる……そう、露のような儚さ。それを形にしたかった」
その数ヶ月後、綾乃の二十歳の誕生日に、航は小さな桐の箱を差し出した。中に入っていたのは、あのスケッチがそのまま現実になったかのような、美しい金のブローチだった。ミキモトの職人に、彼のなけなしの財産をはたいて作らせた、世界に一つだけのジュエリー。
「今はまだ、こんな小さなものしか贈れない。でも、いつか必ず、このブローチにふさわしい舞台を君のために創ってみせる。僕が設計した、光に満ちた家で、君と一緒に暮らすんだ」
ペアシェイプのダイヤモンドが、綾乃の胸元で喜びの雫のようにきらめいた。それは、二人の未来を誓う、かけがえのない証だった。
しかし、時代の潮流は、若い二人のささやかな夢を無慈悲に飲み込んでいく。日中戦争が泥沼化し、街からは華やかさが消え、人々の顔には暗い影が差し始めていた。そして昭和十六年、航の元にも、一枚の赤い紙が届いた。召集令状だった。
出征の前夜、二人は最後の時を過ごした。綾乃は、航に「待っています」と何度も繰り返した。航は、綾乃の震える手を握りしめ、「必ず帰ってくる。このブローチに誓って」とだけ言った。それが、二人の最後の会話になった。
航からの便りは、数ヶ月で途絶えた。そして一年後、結城家に届いたのは、彼の戦死を伝える、あまりにもそっけない公報だった。
綾乃の世界から、光が消えた。
悲しみに暮れる娘を案じた両親は、半ば強引に、取引先の銀行の頭取の息子との縁談を進めた。もはや、抵抗する気力も残っていなかった。綾乃は、心を殺してその縁談を受け入れた。嫁入り道具の中から、航のブローチだけを抜き取り、手元の小さな小箱に隠して。
結婚生活は、色のない日々だった。夫は悪い人間ではなかったが、綾乃の心にある空白を埋めることはできなかった。そして、昭和二十年、大阪大空襲。燃え盛る街を、綾乃は必死で逃げ惑った。身一つで焼け出された彼女が、それでも固く胸に抱きしめていたのは、航の形見のブローチが入った小箱だけだった。
終戦後、綾乃は妹の靜の嫁ぎ先である橘家に身を寄せた。夫は空襲で亡くなっていた。全てを失い、心身ともに疲れ果てた綾乃は、日に日に衰弱していった。
ある雪の降る日、綾乃は、自分の死期を悟ったかのように、妹の靜を枕元に呼んだ。そして、震える手で、あの桐の箱を差し出した。
「靜……これを、あなたに預けます。私には、もうこれを持つ資格がない。あの人との誓いを、守れなかったから。でも、あの人の想いだけは……この世から消したくないの」
箱の中で、ブローチが静かな光を放っていた。
「お願い。いつか、この輝きにふさわしい、誰かの元へ届けて。愛する人のために、未来を信じて、強く生きようとする人の元へ……」
それが、綾乃の最期の言葉だった。靜は、姉のあまりにも悲しい恋の物語と、このブローチに込められた重い遺言を、ただ黙って受け止めるしかなかった。そして、その日から数十年間、靜はその約束を固く守り、ブローチの存在を誰にも明かすことなく、自分の部屋の片隅に静かに仕舞い込み続けてきたのだった。
第三章:繋がる想い
「伊吹航……その名前、間違いありませんか」
L'crin du Tempsのカウンターで、朔弥は息を呑んだ。紗代が、祖母の日記の断片と、古い戸籍から探し当てた綾乃の恋人の名前を告げた時のことだった。
「どうしてその名前を……?」と、今度は紗代が問い返す。
朔弥は、店の奥にある事務所へ紗代を招き入れた。壁一面に、建築や宝飾に関する専門書が並んでいる。彼は、その中から一冊の古いファイルを取り出した。中には、黄ばんだ設計図のコピーや、モノクロの写真が収められていた。
「伊吹航は、僕の母方の祖父です」
朔弥の言葉に、紗代は全身の血が逆流するような衝撃を受けた。
「祖父は、僕が生まれるずっと前、戦争で亡くなったと聞いています。建築家だった、ということ以外、祖母も母も詳しくは教えてくれませんでした。ただ、祖父が遺したものがこれだけだった、と」
朔弥が指差したのは、一枚の設計図だった。それは、個人の邸宅のもののようだった。光がふんだんに入るように設計された、大きな窓のあるリビング。そして、その設計図の余白に、見覚えのあるフォルムが描かれていた。金の蔓が天に伸び、一粒の雫がきらめく、あのブローチのデザイン画だった。
「……これ」
「ええ。このデザイン画のことは、ずっと不思議に思っていたんです。なぜ、家の設計図に、ジュエリーのデザインが描かれているのか。祖父は、一体誰のためにこれを……」
点と点が、線で結ばれていく。綾乃と航。紗代の曾祖母と、朔弥の祖父。時代に引き裂かれた二人の恋人が、八十年以上の時を経て、奇しくもその孫と曾孫を出会わせたのだ。ブローチは、二つの家族を繋ぐ、唯一の絆だった。
「綾乃さんは、祖父の想いをずっと守り続けてくれたんですね。炎の中を、たった一人で……」
朔弥の声は、微かに震えていた。今まで、どこか遠い存在だった祖父が、急に生身の人間として、血の通った存在として、彼の心に迫ってきた。夢と希望に溢れ、一人の女性を深く愛した青年。その人生が、戦争によって無残に断ち切られた無念さ。
紗代もまた、胸が締め付けられる思いだった。祖母の靜が、なぜブローチの存在をひた隠しにしてきたのか。それは、姉・綾乃のあまりにも痛ましい記憶に触れることを恐れたからだろう。そして、姉の「いつか、ふさわしい人の元へ」という遺言を、誰よりも重く、真摯に受け止めていたからに他ならない。靜は、ただ忘れていたのではなく、このブローチに宿る想いを、大切に、大切に「守って」いたのだ。
その重い沈黙を破ったのは、紗代のスマートフォンの着信音だった。恋人の圭吾からだった。
「もしもし、紗代? 今週末、どうする? そろそろ、ちゃんと話がしたいんだけど」
圭吾の声は、どこか苛立っているように聞こえた。以前の紗代なら、彼の機嫌を損ねないように、曖昧な返事をしてその場を凌いでいただろう。けれど、今の彼女は違った。
「ごめんなさい、圭吾さん。私、今、向き合わなきゃいけないことがあるの。あなたとのことからも、もう逃げたくない。だから、少しだけ時間をください。自分の気持ちがはっきりしたら、私から連絡します」
はっきりと、自分の言葉で意思を伝えた。電話の向こうで圭吾が息を呑むのが分かった。綾乃の、航の、そして祖母の靜の人生に触れて、紗代の中で何かが変わり始めていた。自分の人生から、もう目を逸らしてはいけない。誰かのせいにしたり、何かに寄りかかったりするのではなく、自分の足で立たなければならない。
電話を切ると、朔弥が優しい眼差しで紗代を見ていた。
「見つかったんですね。あなただけの、ストーリーが」
その言葉に、紗代は力強く頷いた。そうだ、見つかった。いや、ずっとここにあったのだ。自分が目を向けていなかっただけで。
アトリエに戻った紗代は、新しいデザイン画を描き始めた。もう、迷いはなかった。綾乃の情熱、航の夢、靜が守り抜いた想い。その全てを、一本の線に込めていく。過去から現在へ、そして未来へと繋がっていく、決して途切れることのない想いの連鎖。それは、金の蔓のようにしなやかに絡み合い、涙の雫のようなダイヤモンドの輝きに集約されていく。
デザインの名は、自ずと決まった。「ternit(エテルニテ)」――フランス語で、「永遠」を意味する言葉だった。
第四章:輝きの行方
紗代が手掛けた「ternit」シリーズは、社内のデザインコンペで、満場一致で大賞に選ばれた。オーナーの桐島は、紗代のデザイン画を見るなり、「お前さん、化けたな。この線には魂が宿っとる」と、ぶっきらぼうな口調の中に、最大限の賛辞を込めて言った。
それは、これまでの紗代のデザインとは全く異なるものだった。ただ美しいだけでなく、見る者の心の奥深くに訴えかけるような、力強い物語性があった。蔓のモチーフは綾乃の情熱的な生き様を、そして中央で輝く一石のダイヤモンドは、航の揺るぎない愛と、それを守り抜いた靜の静かな強さを象徴しているようだった。
「ternit」は、アトリエ・キリシマの新作コレクションとして、大々的に発表されることになった。その発表会のレセプションパーティーの日、紗代は、黒いシンプルなドレスの胸元に、あのミキモトのブローチを飾っていた。
それはもはや、誰かの悲しい思い出の詰まった遺品ではなかった。綾乃の情熱を、航の夢を、靜の覚悟を、そして朔弥との出会いを。その全ての物語を受け継ぎ、未来を照らす光の証として、今、紗代の胸で誇らしげに輝いていた。
会場には、多くの招待客が詰めかけていた。その人垣の中に、朔弥の姿を見つけた時、紗代はほっと息をついた。朔弥は、紗代の胸元のブローチに目を留めると、穏やかに微笑んだ。
「とても、お似合いです。ブローチが、八十年ぶりに息を吹き返したようだ」
「ありがとうございます。このブローチが、私に力をくれました」
二人の間に、心地よい沈黙が流れる。それは、言葉を必要としない、深い理解と共感に満ちた時間だった。彼らの祖父母が叶えられなかった夢。その物語の続きを、自分たちが生きているのだという不思議な感覚。それは恋愛感情とは少し違う、もっと大きく、もっと尊い絆のように思えた。
パーティーの途中、紗代は圭吾に呼ばれて、会場のテラスへ出た。
「見たよ、君のジュエリー。……すごかった。俺が知ってる紗代じゃないみたいだ」
圭吾は、少し寂しそうに笑った。
「君はもう、俺がいなくても大丈夫なんだな。いや、もしかしたら、俺がいない方が、君はもっと輝けるのかもしれない」
「圭吾さん……」
「別れよう、紗代。君には、もっと広い世界が待ってるよ」
それは、不思議なほど、穏やかな別れだった。涙は出なかった。ただ、彼の選んだ言葉の優しさに、心から「ありがとう」と思った。
圭吾と別れ、一人になった紗代の元へ、朔弥がそっとシャンパングラスを差し出した。
「大丈夫ですか」
「はい。大丈夫」
紗代は、きっぱりと答えた。夜空には、細い月が浮かんでいる。
「私、決めたんです。このブローチが繋いでくれた物語を、私のジュエリーを通して、未来に伝えていきたい。ただ消費されるだけじゃない、誰かの人生に寄り添って、想いを受け継いでいけるような、そんなジュエリーを創っていきたいんです」
その瞳は、もう迷ってはいなかった。自分の進むべき道を、はっきりと見据えていた。朔弥は、そんな紗代の横顔を、眩しそうに見つめていた。
「素晴らしい。……僕も、祖父が遺したこの店で、同じことをしていきたい。一つ一つのジュエリーに眠る物語を掘り起こして、次の世代に繋いでいく。それが、僕の仕事です」
二人は、グラスを軽く合わせた。カチン、という澄んだ音が、大阪の夜景に溶けていく。それぞれの場所で、それぞれのやり方で、同じ未来を見つめている。そんな確かな手応えが、紗代の胸を満たしていた。
終章:令和の光の中で
「ternit」コレクションは、大きな成功を収めた。紗代は、一躍、若手注目デザイナーとして業界にその名を知られることになった。仕事は多忙を極めたが、その日々は驚くほど充実していた。もう、デザインに行き詰まることも、自分の存在価値に悩むこともない。彼女の中には、あのブローチが授けてくれた、揺るぎない物語という名の羅針盤があったからだ。
あの日以来、朔弥とは、よき友人として、そして同じ志を持つ同志として、交流が続いていた。時々、L'crin du Tempsを訪れては、アンティークジュエリーにまつわる歴史や逸話を聞かせてもらうのが、紗代にとっては何よりのインスピレーションの源になっていた。
ある晴れた秋の日、紗代は朔弥に誘われて、中之島公園を散策していた。赤レンガが美しい中央公会堂を眺めながら、朔弥がぽつりと言った。
「祖父が、綾乃さんと密会していたかもしれない場所です」
「……そう、なんですね」
八十数年前、この同じ場所で、二人の若者が未来を語り合っていた。その光景が、まるで目の前に広がるかのように、鮮やかに心に浮かぶ。
「不思議ですね」と紗代が呟く。「私たちは、二人が遺してくれた物語の、ほんのひとかけらを知っただけなのに。まるで、ずっと昔から二人を知っていたような気がする」
「想いは、時を超えるのかもしれませんね。特に、ジュエリーのような、形に残るものに託された想いは」
朔弥は、紗代の胸元に視線を移した。今日も、彼女はあのブローチをつけていた。それは、もはや彼女の身体の一部のように、しっくりと馴染んでいた。
「紗代さん。もし、よかったら……」
朔弥が、何かを言いかけた時だった。紗代は、彼の言葉を遮るように、くるりと彼の方に向き直った。
「朔弥さん。私、自分のブランドを立ち上げようと思うんです」
「えっ」
「アトリエ・キリシマには、本当にお世話になりました。でも、もっと自由に、自分の信じるジュエリーを創りたい。このブローチが教えてくれたみたいに、時代を超えて人の心に届くような、本物の物語を紡いでいきたいんです」
その決意を語る紗代の顔は、自信に満ちた光で輝いていた。それは、航が綾乃の中に見出した、「光を求めてしなやかに伸びていく」生命力そのものだった。
朔弥は、言いかけた言葉をそっと飲み込んだ。そして、心からの笑顔で言った。
「応援します。あなたなら、きっとできる」
紗代は、胸のブローチにそっと触れた。金の蔓のなめらかな感触と、ダイヤモンドの硬質な輝き。その冷たい感触の中に、確かに、人の温もりを感じた。綾乃の情熱、航の夢、靜の守り抜いた愛。そして、それらを受け継いだ、自分自身の、未来への決意。
「ありがとう、綾乃さん。ありがとう、おばあちゃん」
心の中で、そっと呟く。
風が吹き抜け、公園の木々がざわめいた。見上げると、令和の空は、どこまでも高く、青く澄み渡っていた。
過去からの贈り物を胸に、紗代は、光に満ちた未来へと、確かな一歩を踏み出した。その隣には、同じ光を見つめる朔弥が、静かに微笑みながら立っていた。二人の物語は、そして、このブローチが紡ぐ物語は、まだ始まったばかりだった。