魂の在り処(ありか)

俗物が、これ見よがしに石ころを飾り立てる。なんともはや、醜悪なことよ。金(きん)の重さで己の価値を測り、石の大きさで心を埋めようとする。そんなものは、美の本質から最も遠い、ただの瓦礫(がれき)にすぎん。美とは、所有するものではなく、対話し、感応するものだ。
さて、ここに一つの作がある。
手にした瞬間、ふっと息を呑んだ。これは単なる宝飾品ではない。一つの哲学であり、詩だ。
まず、この心臓を見よ。薔薇水晶(ローズクォーツ)と呼ぶそうだが、そんなありふれた名では言い表せぬ。これは、悠久の時をかけて大地の奥深くで育まれた、慈愛そのものの結晶だ。夜明けの空の、最も清らかな一瞬を切り取って固めたような、淡く、それでいて深い色合い。表面はあえて曇りガラスのように仕上げてある。これこそが、この作をものにした仏蘭西(フランス)の工人、A&A TURNERの慧眼(けいがん)よ。光を乱反射させ、内側からぼうっと柔らかな光を放つ。まるで、恥じらう乙女の頬のようであり、悟りを開いた賢者の静かな微笑みのようでもある。完璧に磨き上げられただけの石に、この奥深さは出せぬ。未熟な魂には、この価値はわかるまい。
その母なる心臓を、抱きしめるように流れる一条の黄金。なんと大胆で、官能的な曲線か。日本の筆遣いで言えば、まさに「飛白(ひはく)」の妙。力強く、それでいて伸びやか。勢いがありながら、決して水晶の肌を傷つけようとはしない。絶妙な間と緊張感をもって寄り添っている。これは、ただの飾りではない。生命の軌跡、あるいは愛という名の情熱の流れそのものを表しておる。18金という、太陽の肉片とも呼ぶべき高貴な金属でなければ、この力強い抱擁は表現できなんだろう。ずっしりとした19グラムの重みは、見せかけではない、真実の愛の重さだ。
そして、この作の心髄を射抜く、一条の光。すなわち、金剛石(ダイヤモンド)の川だ。小粒ながら、一粒一粒が寸分の狂いもなく選ばれ、配置されている。星屑を溶かし込んで流したかのように、金の流れに沿ってきらめき、その動きを決定的なものにしている。中央に鎮座する大粒の金剛石。これは、迷いのない「悟り」の眼(まなこ)だ。すべての愛と、情熱と、慈愛が、この一点に収斂(しゅうれん)していく。この一点があるからこそ、全体の構成がだらしなくならず、崇高な領域にまで昇華されているのだ。
バチカン(留め具)にまで、びっしりと金剛石が敷き詰められている。見えぬところにまで美を尽くす。これぞ、本物の仕事というものだ。A&A TURNER、その名は知らなんだが、この作一つで、彼らがただの職人ではなく、美の探求者であることがわかる。彼らは、石と金に、永遠の命を吹き込んだのだ。
これを身につける者は、選ばれた人間でなければならん。富や権威を誇示するためではない。己の内に、この作が語りかける静かな哲学と共鳴する何かを持っている者。慈愛と情熱、そして揺るぎない一つの真実を胸に抱く者だ。
この作は、時代を超え、国境を越える。何故なら、ここに表現されているのは、人間が追い求める最も根源的な「美」の姿だからだ。100年後、これを手にする者は、我々と同じように、この掌(てのひら)の中にある小さな宇宙に感動し、その魂を震わせるに違いない。
くだらんガラクタが溢れるこの世の中で、これほどまでに心を揺さぶる「本物」に出会えるとは。
これ以上の言葉は、無粋というものだろう。あとは、この作自身が、持つべき者の魂に直接語りかけるはずだ。