以下、所謂ブラクラ妄想ショートショートです〜〜

時を超える金の蛇

第一部:令和の空虚
水野莉子(みずのりこ)、28歳。ジュエリーデザイナー。その肩書きは、彼女の心を満たすにはあまりに軽薄だった。東京の片隅にある小さなデザイン事務所で、莉子はモニターに映る3Dモデルを無感動に回転させていた。クライアントが求めるのは「売れる」デザイン。個性は削られ、情熱は平均化され、最終的に残るのは、どこかで見たような無難な輝きの残骸だけだった。
「これで、いいか…」
ため息と共に吐き出した言葉は、埃っぽいオフィスの空気に溶けて消える。かつては、宝石の持つ悠久の物語に心をときめかせ、自分にしか作れないデザインを夢見ていた。だが、現実はどうだ。締め切りに追われ、生活費を稼ぐために、魂のないデータのかけらを右から左へと流す日々。いつからだろう。デザイン画を描くときに、心が動かなくなったのは。
そんな無気力な日常に、一つの転機が訪れた。三ヶ月前に亡くなった祖母の遺品整理をしていた母から、古びた桐の小箱が送られてきたのだ。中に入っていたのは、莉子が一度も会ったことのない、スペイン人の曾祖母の形見だという。
箱を開けた瞬間、莉子は息をのんだ。そこには、ただ一つの指輪が、ベルベットの布に鎮座していた。
それは、奇妙で、それでいて抗いがたい魅力を持つ指輪だった。二匹の金の蛇が互いの尾を追いかけるように絡み合い、一つの輪をなしている。片方の蛇の頭には、夜の湖のように深い青のサファイアが。もう片方の蛇の頭には、森の若葉を閉じ込めたような鮮やかな緑のエメラルドが嵌められていた。そして、蛇の体には、まるで鱗のように、いくつもの小さなダイヤモンドが埋め込まれている。
「スペインの…指輪…」
莉子はそっと指輪を手に取った。ずっしりとした18金の重みが心地よい。指にはめてみると、サイズは驚くほどぴったりだった。まるで、最初から彼女の指のために作られたかのようだ。サファイアの冷たさと、エメラルドのどこか有機的な温かみが、同時に肌に伝わってくる。相反する二つの宝石。決して交わらないはずの色と性質が、一つの指輪の上で奇妙な調和を保っていた。
その夜、莉子は仕事を終えてからも、ずっと指輪を眺めていた。この指輪を作ったのは誰だろう。どんな想いを込めて、この二つの宝石を選んだのだろう。そして、曾祖母のソフィアは、どんな人生を送ったのだろう。何も知らない、遠い過去の血族。彼女と自分を繋ぐ、唯一のものがこの指輪だった。
窓の外で、生ぬるい風がビルを揺らす。デザインのアイデアが何も浮かばない。空っぽの心に、指輪のサファイアの深い青が、吸い込まれていくようだった。
その時だった。
ゴゴゴゴ…という地鳴りと共に、部屋が激しく揺れた。本棚から本がなだれ落ち、デスクの上のペン立てが床に転がる。強い地震だ。莉子は咄嗟にデスクの下に潜り込もうとした。
瞬間、指にはめられたリングが、ありえないほどの熱を放った。
「熱っ!」
まるで溶けた鉄を押し付けられたような灼熱。莉子は悲鳴を上げて指輪を抜こうとしたが、なぜかびくともしない。サファイアとエメラルドが、内側から発光している。青と緑の光が混ざり合い、部屋全体を幻惑的な光で満たした。
激しい揺れと、目もくらむような光。莉子の意識は、そこでぷつりと途絶えた。
第二部:マドリードの情熱
意識が浮上したとき、莉子の耳に届いたのは、聞き慣れない言語の喧騒だった。硬い石畳の感触が背中に伝わる。ゆっくりと目を開けると、目に飛び込んできたのは、抜けるように青い空と、見知らぬ石造りの建物が並ぶ街並みだった。
「…どこ、ここ?」
体を起こすと、周囲を歩く人々の服装が明らかに現代のものではないことに気づく。クラシカルなドレスを着た婦人、ソフト帽をかぶった紳士、走り回る元気な子供たち。聞こえてくるのは、情熱的な響きを持つスペイン語の会話だ。
自分の服装を見下ろす。地震にあったときのまま、シンプルなブラウスとパンツ姿だ。スマートフォンも、財布も、カバンもない。持ち物は、今着ている服と、左手の薬指に嵌ったままの、あの二匹の蛇の指輪だけだった。
パニックが全身を襲う。これは夢?それとも何かの撮影?しかし、肌を撫でる乾いた風も、石畳の匂いも、遠くで鳴り響く教会の鐘の音も、あまりにリアルだった。
呆然と座り込む莉子の前に、一人の男性が影を落とした。
「大丈夫か、セニョリータ」
見上げると、そこに立っていたのは、年の頃は三十代前半だろうか、黒い髪に、憂いを帯びた優しい瞳を持つ男性だった。彼は作業用のエプロンをつけており、その指は工具を握り慣れているかのように、少し荒れていた。
「あなた…誰ですか?ここは…?」
「ここはマドリードだよ。君こそ、道端で倒れているようだったが」
男性は莉子の顔を見て、少し眉をひそめた。そして、彼の視線が莉子の左手に注がれた瞬間、その優しい瞳が驚きに見開かれた。
「その指輪…」
彼はゆっくりと莉子の手に近づき、信じられないものでも見るかのように、その指輪を凝視した。
「なぜ君がそれを持っているんだ?それは、私が作った指輪だ。数日前に、アレハンドロ様に納品したばかりの…」
莉子の頭は真っ白になった。彼が、この指輪を?では、ここは過去だというのか。そんな馬鹿なことが。
「記憶が…ないんです。自分の名前以外、何も…」
咄嗟に出たのは、ありきたりな嘘だった。しかし、それ以外にこの状況を説明する言葉が見つからなかった。
男性は戸惑いの表情を浮かべたが、莉子のあまりに切羽詰まった様子に、疑うよりも先に同情が勝ったようだった。
「…そうか。気の毒に。私はハビエル。宝石細工師だ。とりあえず、私の工房に来るといい。何か思い出せるかもしれない」
ハビエルと名乗ったその職人は、莉子に手を差し伸べた。その手にすがるようにして、莉子は立ち上がった。彼の工房は、その路地のすぐ先にあった。革と、金属と、磨き粉の匂いが混じった、小さな工房。壁にはデザイン画がびっしりと貼られ、使い込まれた工具が整然と並べられている。そこは、莉子がかつて夢見た、魂の宿る場所のように思えた。
「この指輪は、ある貴族の婚約指輪として注文されたものだ。アレハンドロ・デ・ラ・クルス公爵が、婚約者であるソフィア嬢に贈るためにね」
ハビエルは、硬いパンとチーズを分け与えながら、ぽつりぽつりと語った。
ソフィア。その名前に、莉子の心臓が跳ねた。曾祖母と、同じ名前。
「彼女は…どんな人なんですか?」
「ソフィア嬢は…炎のような人だ」
ハビエルは遠い目をして言った。「自由で、情熱的で、才能あふれる画家だ。古い慣習や家柄に縛られることを何よりも嫌う。…あの人が、公爵との結婚を心から望んでいるとは思えない」
その言葉には、かすかな痛みが滲んでいた。莉子は、この物静かな職人が、婚約指輪を贈る相手であるソフィアに、特別な感情を抱いていることを直感した。
「よかったら、ここで少し休んでいくといい。何か手伝えることがあれば、言ってくれ」
ハビエルの優しさに、莉子の張り詰めていた糸が切れ、涙がこぼれ落ちた。こうして、1920年代のマドリードでの、莉子の奇妙な生活が始まった。
第三部:交錯する運命
ハビエルの工房で雑用を手伝いながら、莉子はこの時代の空気を吸い込んだ。芸術と革命の気風に満ちた1920年代のマドリード。ピカソやダリが新しい芸術の形を模索し、街のカフェでは人々が未来を熱く語り合っていた。それは、莉子がいた効率と無難さを求める令和の東京とは、何もかもが対照的だった。
そして、運命の日、莉子は彼女に会った。
工房に、嵐のように入ってきた一人の女性。黒い髪を無造作にまとめ、瞳には強い意志の光を宿している。その指は絵の具で汚れ、その佇まいは何者にも縛られない野生の鳥のようだった。
「ハビエル!また父が、画材を取り上げてしまったわ!あなたは何か知らない?」
彼女こそが、ソフィアだった。莉子の、曾祖母。
ソフィアは、工房の隅にいる莉子に気づくと、興味深そうに目を細めた。
「あら、新しい弟子?ハビエル、あなたにしては珍しいわね」
「セニョリータ・ソフィア…。彼女はリコ。少し事情があって、ここに」
ハビエルが言いよどんでいると、ソフィアは莉子の手を取り、じっとその顔を覗き込んだ。
「リコ…日本の名前ね。不思議。あなたを見ていると、なんだか遠い未来の鏡を覗いているような気分になるわ」
その言葉に、莉子は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。ソフィアは、莉子の左手の指輪に気づくと、一瞬、その表情を曇らせた。
「ああ、それ。アレハンドロがあなたに作らせたという、私の『首輪』ね」
「首輪…?」
「そうよ。あの人は、私を鳥かごに入れておきたいだけ。私の絵も、情熱も、理解しようとしない。ただ、美しく才能ある妻を所有したいだけなのよ」
ソフィアは指輪を軽蔑したように一瞥すると、すぐに興味を失ったように話をハビエルに戻した。莉子は、ハビエルがソフィアを見つめる視線に、言葉にならないほどの愛情と、そして諦めが混じっているのを見た。
数日後、莉子はソフィアの婚約者であるアレハンドロ公爵にも会った。彼は背が高く、身のこなしは洗練され、誰にでも愛想が良かった。だが、その完璧な笑顔の裏に、莉子は冷たい独占欲を感じ取った。彼はソフィアを「私の芸術家」と呼び、彼女の才能を自分のステータスの一部としてしか見ていなかった。
三者の関係は、痛々しいほどに明らかだった。ソフィアを所有したいアレハンドロ。ソフィアの魂の自由に焦がれ、その幸せだけを願うハビエル。そして、その二人から贈られる指輪を前に、自らの道を探しあぐねるソフィア。
莉子は、この複雑に絡み合った人間関係の中心に、自分が嵌めている指輪が存在することを痛感していた。
第四部:宝石の言葉
工房での生活は、莉子に失いかけていたものを取り戻させた。ハビエルの仕事は、丁寧で、誠実で、宝石一つ一つへの深い敬意に満ちていた。彼は莉子に、金属の叩き方から、石の留め方まで、根気よく教えてくれた。
ある晩、莉子はハビエルに尋ねた。
「どうして、あの指輪にサファイアとエメラルドを選んだんですか?普通、婚約指輪ならダイヤモンドとか、一つの宝石を選ぶことが多いのに」
ハビエルは、磨いていた銀のスプーンを置くと、静かに語り始めた。
「注文主である公爵が望んだからだ。彼の家の紋章の色が青で、ソフィア嬢の瞳の色が緑だから、と。…だが、私が石を選んだ理由は、少し違う」
彼は、窓の外の月を見上げた。
「サファイアは、誠実、真実の愛を象徴する。エメラルドは、希望、そして未来の幸福を。私は、あの指輪に、言葉にできない私の祈りを込めたんだ」
「祈り…?」
「そうだ。サファイアには、私の変わらない真実の想いを。エメラルドには、彼女が誰とどこにいようと、その未来が幸福と希望に満ちあふれたものであってほしいという願いを。そして、二匹の蛇は、決して一つにはなれないかもしれないが、それでも永遠に寄り添い続ける二つの魂を表現した。ダイヤモンドは…彼女が時折見せる、眩しいほどの笑顔のきらめきだ」
その言葉は、莉子の胸を強く打った。これは、単なる宝飾品ではない。ハビエルの魂そのものだ。クライアントの要望に応えるだけの、魂のないデザインとは全く違う。愛と、祈りと、物語が、そこには込められていた。
莉子は、自分がなぜデザインに詰まっていたのか、その理由が分かった気がした。自分は、宝石の「価値」ばかりを見て、「物語」を見ていなかった。誰かの想いを受け止め、形にする。それこそが、ジュエリーデザイナーの本当の仕事なのではないか。
その日から、莉子は夢中でデザイン画を描き始めた。ハビエルに教えを請い、ソフィアの絵からインスピレーションを受け、マドリードの街の光と影をスケッチした。莉子の心に、再び情熱の火が灯り始めていた。
第五部:明かされる真実
ソフィアは時々、こっそりと工房を訪れた。アレハンドロの目を盗んで、絵を描くためだ。彼女と莉子は、不思議と馬が合った。芸術について、未来について、そして恋について語り合った。
ある日、ソフィアは隠していたスケッチブックを莉子に見せてくれた。そこに描かれていたのは、力強いタッチの自画像やマドリードの風景、そして、ハビエルの働く姿だった。工具を握る真剣な横顔、デザイン画に見入る優しい瞳。そのどれもが、愛情のこもった視線で描かれているのが分かった。
「私、怖いんだ」ソフィアは呟いた。「公爵と結婚すれば、もう二度と絵筆を握らせてもらえないかもしれない。でも、家のために、私は…」
「あなたの心は、本当はどうしたいの?」と莉子は尋ねた。
「分からない…。でも、ハビエルといると、本当の自分でいられる気がする。彼だけが、私の絵を、魂を、見てくれる」
ソフィアの瞳から、一筋の涙がこぼれた。
その夜、莉子は工房の屋根裏で、古い革のトランクを見つけた。中に入っていたのは、ソフィアが描いたであろう数枚のデッサンと、一冊の日記だった。日記はスペイン語で書かれていたが、莉子は大学で第二外国語として学んでいたため、拾い読みすることができた。
そこには、アレハンドロとの婚約への絶望、創作への渇望、そしてハビエルへの募る想いが、切々と綴られていた。
『ハビエルが私のために指輪を作っている。アレハンドロからの贈り物。だが、あの指輪はハビエルの心そのものだ。青は彼の深い瞳。緑は彼がくれる希望。あの指輪を嵌めることは、彼の心を裏切ることになるのだろうか。それとも…』
日記を読み進めるうちに、莉子は衝撃的な記述を見つけた。ソフィアの母親の名前。それは、莉子の祖母が時折口にしていた、日本の名前だった。そして、日記の最後に、こう書かれていた。
『お腹に新しい命が宿っていることが分かった。この子の父親は…』
その先は、インクが滲んで読めなかった。しかし、莉子にはすべてが繋がった。ソフィアは自分の曾祖母。彼女はハビエルを愛していた。そして、この時すでにお腹には、自分の祖母となる子供が宿っていたのだ。
自分は、二人の運命が決定づけられる、その瞬間に立ち会うために、時を超えてやってきたのかもしれない。
第六部:解放の炎
運命の歯車は、急速に回り始めた。
アレハンドロが、ソフィアとハビエルの親密な関係に感づいたのだ。嫉妬に狂った彼は、工房に怒鳴り込んできた。
「ソフィア!君は私のものだ!こんな薄汚い職人と会うことは許さん!」
「私はあなたの所有物じゃないわ!」ソフィアも激しく言い返した。「あなたの求める妻にはなれない!この結婚は、なしよ!」
ソフィアは、アレハンドロから贈られるはずだった指輪を、自らの指から引き抜こうとした。だが、その指輪は莉子の指に嵌っている。混乱の中、アレハンドロは莉子をソフィアの共犯者だと思い込み、その腕を掴んだ。
「その指輪をよこせ!それは私が金を出したものだ!」
アレハンドロが莉子の指から無理やり指輪を奪おうとした瞬間、それを庇うようにハビエルが割って入った。もみ合いになる男たち。その拍子に、作業台の上にあったアルコールランプが倒れ、床にこぼれた。火は、あっという間に壁のデザイン画に燃え移り、工房は炎に包まれた。
「危ない!」
ハビエルは莉子とソフィアを庇い、出口へと促す。しかし、燃え盛る梁が崩れ落ち、莉子は工房の奥に取り残されてしまった。炎と黒煙が、視界を奪う。
「リコ!」
ソフィアとハビエルの悲痛な叫びが聞こえる。もう駄目かもしれない。莉子が死を覚悟した、その時。
床に転がっていた何かが、炎の光を反射してきらりと光った。ハビエルが制作途中だった、銀のブローチだ。その輝きを見て、莉子の脳裏に、令和の東京の夜景がよぎった。帰りたい。あの空虚だったけれど、平和だった日常に。
炎の向こうから、ソフィアが決死の形相で飛び込んできた。彼女は莉子の手を取ろうとする。
「リコ、しっかり!」
同じ瞬間、ハビエルもまた、二人を救おうと手を伸ばした。
そして、三人の手が、重なり合った。莉子の指で、あの二匹の蛇の指輪が、灼熱を放った。ハビエルの祈り。ソフィアの愛と決意。そして、莉子の未来への渇望。三人の強い感情が渦となり、指輪に流れ込む。
サファイアの青とエメラルドの緑が、工房全体を包み込むほどの激しい光を放った。まるで時空そのものが引き裂かれるような感覚。莉子の体は、強い力で未来へと引っ張られていった。薄れゆく意識の中で、莉子は見た。炎の中、固く手を握り合い、新しい未来へと歩み出そうとする、ソフィアとハビエルの姿を。
第七部:帰還と再生
気がつくと、莉子は自分の部屋の床に倒れていた。窓の外は、もう白み始めている。スマートフォンの緊急地震速報が、けたたましく鳴り響いていた。揺れは、もう収まっている。
すべては、夢だったのだろうか。
莉子は、恐る恐る自分の左手を見た。薬指には、あの二匹の蛇の指輪が、確かに嵌っていた。しかし、その輝きは以前とはどこか違って見えた。まるで、長い旅を終えてきたかのように、温かく、そして穏やかな光を宿している。
涙が、後から後からあふれてきた。それは、悲しみの涙ではなかった。時を超えて、自分のルーツに触れたことへの感動。愛を貫き、生き抜いた曾祖父母への敬意。そして、これから自分が何をすべきか、はっきりと分かったことへの、喜びの涙だった。
莉子は、デスクに向かった。そして、夜が明けるのも忘れ、夢中でデザイン画を描き続けた。それは、二匹の蛇が寄り添うデザイン。サファイアとエメラルドが互いを引き立て合うペンダント。ダイヤモンドが、愛の軌跡のようにちりばめられたブレスレット。
もう、莉子の心に迷いはなかった。彼女のデザインは、ハビエルの祈りと、ソフィアの情熱を受け継いでいた。それは、売れるためのデザインではない。愛と物語を、未来へ繋ぐためのデザインだった。
第八部:遺産・令和のハッピーエンド
数日後、莉子は母に電話をかけ、曾祖母について詳しく尋ねた。母は驚きながらも、祖母から聞いたという話を語ってくれた。
曾祖母ソフィアは、スペインの内戦が始まる直前、宝石職人だったハビエルと共に、日本に亡命してきたのだという。二人は小さな宝石店を開き、懸命に生きた。ソフィアは絵を描き続け、ハビエルは彼女のために美しいジュエリーを作り続けた。二人の間には、莉子の祖母となる娘が生まれた。
「おばあちゃん、言ってたわ。『うちの本当の家宝は、宝石箱の中身じゃない。おじいちゃんとおばあちゃんが、どんな時もお互いを信じ抜いた、その愛そのものだよ』って」
電話を切った後、莉子は改めて、あの桐の小箱を開けた。指輪が入っていた布の下に、一枚の折りたたまれた紙片が隠されているのに気づいた。それは、ソフィアが最期に書いた、まだ見ぬひ孫への手紙だった。
『親愛なる私の未来へ。
もしあなたが、何かに迷い、自分の道を見失うことがあったなら、この指輪を身につけて。これは、ただの飾りではありません。時を超える、私たちの愛と祈りの証です。あなた自身の物語を、あなたの手で、情熱を込めて紡いでいきなさい。あなたの幸せが、私たちの希望です。
ソフィア』
莉子は、その手紙を胸に抱きしめた。
一年後。
東京の閑静な住宅街に、小さなジュエリーアトリエがオープンした。アトリエの名前は「Sofia」。オーナー兼デザイナーは、水野莉子だ。
彼女の作るジュエリーは、すぐに評判となった。一つ一つの作品に、心揺さぶる物語が込められていたからだ。愛する人への想い、新しい人生への希望、困難を乗り越える強さ。人々は、その輝きに自らの人生を重ね合わせ、魅了された。
莉子は、もう誰かと比べて焦ることも、魂のないデザインをすることもなかった。彼女の幸せは、誰かに与えられるものではない。自分の手で、愛と歴史を受け継ぎ、未来を創造していくことの中にあった。
アトリエのショーケースの中央には、彼女の最初のコレクション「El Destino(運命)」が飾られている。その隣には、一枚の古い写真。そこには、穏やかに微笑むソフィアと、その隣で優しく彼女を見守るハビエルの姿が写っていた。
そして、莉子の薬指には、あの二匹の蛇の指輪が、今日も静かに輝いている。サファイアの青は真実の愛を、エメラルドの緑は未来への希望を語りかけながら。それは、時を超えて受け継がれた魂のバトン。莉子は、そのバトンを握りしめ、自分だけの輝きを、この令和の時代に解き放っていく。彼女の物語は、まだ始まったばかりだ。